ヘレン・ケラーは、アメリカ人女性ですが、日本人にとってとても身近で、大きな影響を与えた人物です。
歴史の教科書で一度は学んだことがある方が多いと思いますが、今回は改めてヘレン・ケラーの一生と抱えていた生涯、彼女の偉業の功績についてご紹介いたします。
ヘレン・ケラーが抱える障害と一生

ヘレン・アダムス・ケラーとは、「光の天使」と呼ばれたアメリカ人の女性で、障害教育や福祉の発展に尽力した人物で、数々功績を残した人物です。
ここからは、ヘレン・ケラーの生涯について、わかりやすく解説していきます。
1歳7か月のときに高熱によって視力と聴力を失った
1880年に、アメリカ・アラバマ州タスカンビアにて、父アーサー・ケラーと、母マリー・ケラーの間に生まれたヘレン・ケラーは、1882年1歳7か月の時に高熱を出して、視力と聴力を失いました。
障害を負うまでのヘレン・ケラーは明るい性格で、言葉の発達も早く、6か月の頃には片言で言葉を話し、1歳には歩けるようになりました。
障害を負う前に覚えた「水」という言葉を、「ウォーウォー」と言っていたそうです。
しかし、ヘレン・ケラーは1歳7か月のときに原因不明の高熱と下痢が数日間続き、一命を取りとめましたが、視力と聴力を失いました。
サリバン先生によって指文字やマナーを教わる
当時、「障害者は教育を受けてもしかたがない」と考えられていたため、障害者教育というものはありませんでした。
そんな時代のなか、ヘレン・ケラーの両親がろうあ者の母のためにろうあの研究を行い、ろうあ教育に尽力したアレクサンダー・グラハム・ベル博士と出会ったことで、ヘレン・ケラーの運命は大きく変わります。
ベル博士は「家庭教師が必要だ」と進言したことで、後にアン・サリバン先生をヘレン・ケラーの家庭教師として迎えます。
これが後に、ヘレン・ケラーの生涯の友達となったサリバン先生との出会いです。
当時のヘレンは、障害のためにほとんど“しつけ”を受けずに育っていたため、頭はぼさぼさで、気に入らないことがあるとかんしゃくを起こしており、まるで獣のようだったそうです。
サリバン先生は自身もほとんど目が見えない経験をいかして、ヘレン・ケラーの指導を行いました。
目が見えない、耳が聞こえないヘレン・ケラーの教育は、主に「指文字」を使って行われました。
サリバン先生は厳しい人で、特に食事のマナーについて厳しかったそうです。
手づかみで食事をとろうとするヘレン・ケラーの手を叩き、スプーンを持って食べさせ、「食事ぐらい自由に食べさせてあげて欲しい」というヘレンの両親を閉め出すように、食堂の扉にカギをかけて教育を行いました。
そして、家の離れでヘレンとサリバン先生のふたりきりの生活が始まります。
ヘレン・ケラーとサリバン先生との話で有名な一説、「奇跡の水」があります。
サリバン先生は、不機嫌なヘレン・ケラーを散歩に誘って、ヘレン・ケラーの手をもっていき井戸の水を出しました。
ヘレンの手に「water」とサリバン先生は何度も書いたことで、ヘレン・ケラーは視力と聴力を失う直前に覚えた「ウォーウォー」を思い出し、ものには名前があることに気づきます。
自らの努力によって学びの道を勝ち取る
ヘレン・ケラーは負けず嫌いでがんこな性格でした。
当時は、障害を抱えながら大学に進学するのは非常に難しい時代でしたが、ヘレン・ケラーは持ち前の性格と努力で、自ら学びの道を勝ち取ります。
アメリカの女子教育の名門であるラドクリフ大学に入学したヘレン・ケラーは、最終的に優秀な成績で卒業し、卒業後まもなくして、「自身にあたえられた使命は障害者の救済である」と自覚します。
その後、著述と講演を精力的に行い、1964年9月14日には、当時のジョンソン大統領から、アメリカで最大の名誉である自由勲章を授与されます。
ヘレン・ケラーは、1937年(昭和12年)と1948年(昭和23年)、1955年(昭和30年)の3回日本に来日し、1948年の来日の際は、敗戦で打ちひしがれた日本国民の熱狂的な歓迎を受けました。
88歳の誕生を目前に逝去
生涯ににわたり障害福祉に貢献したヘレン・ケラーは、1968年6月1日、88歳の誕生日を目前に逝去(せいきょ)。
亡骸は、首都ワシントンのワシントン大聖堂の地下に安置されました。
ワシントン大聖堂の地下に眠るヘレン・ケラーの墓石には、点字が刻印されており、彼女が永眠していることを示しています。
ヘレン・ケラーは何をした人?ヘレンの偉業と功績

ヘレン・ケラーは、現代の障害者教育や活躍の場に大きく貢献したという功績がある人物です。
では、ヘレン・ケラーは具体的にどのような活動を行ったのでしょうか?
ここからは、ヘレン・ケラーの生涯のなかで有名な偉業と功績をご紹介いたします。
映画やヴォードヴィルショーへ出演
ヘレン・ケラーは、映画や演劇に出演しています。
当時、障害者の方が映画や演劇を通じて公の場に出るということが珍しく、ヘレン・ケラーはショーで教育について語りました。
聴衆からの質問にヘレンが語ると、大盛況に幕を閉じました。
募金活動の広告塔として起用される
1921年にアメリカ盲人援護協会が設立されると、当時ヴォードヴィルショーで人気を博(はく)していたヘレン・ケラーに、広告塔としてオファーを行います。
「ヘレン・ケラーのために財布の口を開けましょう」というキャッチコピーで始まった募金集会には、多くの著名人とその知り合いが集まり、中には自動車王のヘンリー・フォードや、石油王のジョン・ロックフェラーも募金を行いました。
ヘレン・ケラーは、広告塔として3年間に250回以上の集会を開き、100万ドルもの募金を集めました。
日本の身体障害者福祉法制定のきっかけとなる
岩橋武夫氏が訪米の際に、ヘレン・ケラーに訪日を願う手紙を何度も出したことで、ヘレン・ケラーの日本来日が実現しました。
来日の際は観桜会(かんおうかい)に出席し、昭和天皇とも拝謁(はいえつ)しています。
ヘレン・ケラーが56歳のときに、サリバン先生が70歳で天寿(てんじゅ)を全うし、岩橋氏が厳島神社へ ヘレン・ケラーと参拝した際に、サリバン先生への追悼の火を石灯籠に灯しました。
1937年の来日の際には広島へ、1951年には東京で第一回アジア盲人福祉会議を開催し、ヘレン・ケラーは合計3回日本を訪れています。
ヘレン・ケラーは来日の際に全国で公演を開き、1951年の身体障害者福祉法制定に貢献しました。
まとめ

ヘレン・ケラーは、1歳7か月で高熱によって視力と聴力を失いましたが、その後持ち前の性格と努力によって、学びも道を勝ち取りました。
大学卒業後には、「障害者の救済」が自身の使命だと自覚して、国内外を問わず、障害者救済に尽力しました。
日本には過去3回来日しており、身体障害者福祉法制定に貢献しています。
ヘレン・ケラーは日本人にとってとても身近で、大きな影響を与えた人物なので、ぜひヘレン・ケラーという女性が居たことを覚えておきましょう。